なぜ!? 児童養護施設「森の家はらとうげ」は、原峠にあるのか?
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♬ 小牧山~こだま返せ~ ♬
上田市城下地区の方にはおなじみの城下小学校校歌(二番)です。
小さな古墳や祠(ほこら)があり、長い歴史があることを感じさせてくれる小牧山ですが、何と言っても児童養護施設「森の家はらとうげ(旧原峠保養園)」を忘れてはいけません。なぜ小牧山の原峠に児童養護施設があるのか? 過去に新聞配達をしていたワタクシは、いつも考えていました。
「なぜ、ここにあるのか・・?」と(泣)
そんな疑問を持ったワタクシ。森の家はらとうげの成り立ちを知りたいと思い、三代目園長 松井正さんの奥様である、松井幸枝さん(92歳)にインタビューをさせていただきました。
※松井正さんは、初代園長の松井鳳平(ほうへい)さんの次男にあたります。
子ども達を救いたい!
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ーー森の家はらとうげ(旧原峠保養園)はなぜ山の上にあるのでしょうか?
疑問に思いますよね。始まりは戦前までさかのぼります。私の義理の父である医師の松井鳳平は、上田市内のある大きな工場の嘱託医をしていました。その工場ではたくさんの女工さんが住み込みで働いており、多くの方が結核にかかっていました。結核はその家族へも感染し、特に子どもが結核にかかっている現状に心を痛めた鳳平は『なんとかしなければ!』と、立ち上がります。
鳳平は私費を投じて小牧山の一部を買い取り、また、多くの方の賛同と資金面での援助をいただき、結核にかかった子どもたちの保養施設『小児結核診療所』を建設することにしました。それが森の家はらとうげの始まりです。
ーー確かに、結核患者の方は空気のきれいな場所で静養するというイメージがあります。だからあえて山の上の空気のきれいな場所を選んだのですね。始まりは児童養護施設ではなく『小児結核診療所』だったのには驚きました。
山の上の生活は自給自足で
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ーー診療所はどのくらい続いたのでしょうか?
昭和18年に開業し、戦争が激しくなり残念ながら翌年には閉鎖しました。
ーー翌年に閉鎖とは・・残念ですね。
戦後になると児童福祉法が制定され、当時の県知事 林虎雄氏からの強い要請を受け「虚弱児施設」として再発足しました。戦後の食糧難の時代、栄養状態に問題のある子が多かったのでしょう。多くの子ども達が入所してきました。
そこで山林を開墾して野菜や牧草を作り、乳牛を四頭も飼って子どもたちに必要な栄養源を確保しました。その他にも、ヒツジやアンゴラウサギを飼育して、刈り取った毛を毛糸と交換してもらい、その毛糸を職員がセーター、チョッキにして子どもたちに着せてあげました。
ーー必要なものは自分達の手で用意する。ということですね。
はい。まさに自給自足の生活ですね。実は、当時は水道も通っていませんでした。飲み水を何とか確保するためにも井戸を三か所も掘りましたし、また、近くの湧き水も利用しました。埋設した土管に湧き水を流し、貯水槽でろ過するなど大変な手間を掛けたそうです。
それに、この立地ですから道路の整備や土地の造成も大変だったのだろうと思います。診療所の建築は戦時中だったこともあり、軍需目的以外での資材調達が困難で『新築』は許可されず、古い蚕室を購入し解体・再築するなど・・本当にいろいろな苦労があったようですよ。
ーー飲み水はもちろん、住まいの確保も困難だったのですね。
昭和40年からの松代群発地震の時も大変でした。何しろ古い建物でしたから、被害が出ないように、太い丸太を突っ張り棒にして支えました。それを見た共同募金会の会長さんから建て替えを助言していただき、競輪や国、県の補助金を活用しながら食堂棟、園舎棟を建て替え、その後、昭和50年には体育館の新設も実現しました。
ーー子ども達の安全が確保できて一安心です。
念願だった教員の配置が実現
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ーー戦後、子どもたちの保養施設として再出発したわけですね。中学校の分室を併設していますが、そのあたりを教えてください。
当初は保養施設だけでしたが、鳳平は保養と教育の充実を理想とし、教員の配置を県に要請をします。なんと7年間も未解決でしたが、昭和32年に小学校、中学校の教員が配置され城下小学校、第二中学校(その後、四中に変更)の分室になり、保養と教育を並行して進められるようになりました。
昭和32年から分室の建築が始り、上田市庁舎の廃材を利用するなどやりくりしながら徐々に増設していきました。その後、昭和38年に上田市によって2階建ての分室が新築されました。
ーー子ども達が教育を受ける機会が整備されていったのですね。
はい。ただ当時は、まだまだ結核治療中や栄養状態に問題のある子どもが多く、寝たまま授業を受ける子がいるのは当たり前。卒業証書もベッドの中で受け取る子もいたそうです。
ーーなるほど・・本当に知らないことばかり・・。(中編に続く)
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